Se connecter陸がダイニングに戻ってきたのは、十分ほど経ってからだった。 何事もなかったように席に着き、冷めかけた料理にナイフを入れる。 聞かないほうがいい。契約の妻が、夫の交友関係に口を出す理由はない。 そうわかっているのに、言葉が先にこぼれた。 「……西園寺さん、という方ですか」 陸の手が止まった。 「見えたのか」 「すみません。画面が、こちらを向いていたので」 陸は短く息を吐き、ナイフを置いた。 「西園寺美玲。祖父同士が古い付き合いで、子どもの頃から顔を知っている。それだけだ」 「お祖父様がおっしゃっていた、縁談のお相手ですね」 「断った話だ」 陸の声は平坦だった。けれど、それ以上は聞くなと言われている気がした。 葵が黙ってスープを口に運ぶと、陸が続けた。 「来月の第一土曜、西園寺家の主催で慈善パーティーがある。お前も一緒に来い」 「私も、ですか」 「結婚を公にする場にする。神条の妻として、初めて人前に出ることになる」 葵は、スプーンを持つ手に力をこめた。 人前で、神条陸の妻を演じる。祖父の前で一度やり遂げたとはいえ、今度は財界の人間が大勢集まる場所だ。 しかも、主催はあの名前の家。 「土曜日の夕食は」 自分でも思いがけない言葉が出た。 陸が、わずかに眉を上げる。 「追加条項の一つ目です。毎週土曜日の夕食は、一緒にとることになっています」 「……パーティーで食べればいい。俺の隣で」 それで条項は守られる、とでも言いたげな顔だった。 葵は思わず小さく笑いそうになり、慌てて唇を引き結んだ。 * 月曜日の朝。出勤前の陸が、玄関で靴を履きながら言った。 「パーティーのドレスを仕立てさせたい。今日の午後、店の者をここへ呼んでいいか」 葵は、一瞬返事が遅れた。 呼んでいいか。この人が、自分に許可を求めている。 「……はい。お願いします」 「そうか」 それだけ言って、陸は出ていった。次からは先に言う。土曜日の約束を、彼は本当に守るつもりらしい。 午後に訪れた仕立て屋の女性は、いくつもの布見本を広げてみせた。深い赤、上品な黒、華やかな金。 「それから、ご主人様からのご希望がこちらです」 最後に差し出されたのは、淡い水色の生地だった。光の加減で
屋敷に着くまで、陸は一言も話さなかった。 ただ、葵の手首を握った指だけは、最後まで離れなかった。 玄関で車を降りると、陸はようやく手を離した。そのまま振り返りもせずに階段を上がっていく。 葵は、自分の手首を見下ろした。赤くなってもいない。痛くもない。それなのに、つかまれていた場所だけが、いつまでも熱を持っているような気がした。 書き足す。 あの人は、いったい何を書き足すつもりなのだろう。 ほかの男と話すな。笑うな。家庭教師は辞めろ。 どれを言われても、おかしくはない気がした。 * 翌朝。土曜日。 朝食の席に、陸の姿はなかった。 「旦那様は、早朝からお出かけになりました」 三浦が紅茶を注ぎながら言う。代わりにダイニングに現れたのは、桐生だった。 「おはようございます、奥様。社長からお預かりしたものがございます」 差し出されたのは、一枚の白い封筒だった。 葵は、思わず背筋を伸ばした。きっと、昨夜の続きだ。 封を切ると、中から便箋が一枚出てきた。 印刷された書類ではなかった。万年筆で書かれた、几帳面な文字。 【婚姻契約書 追加条項】 【一、妻は、毎週土曜日の夕食を、夫と共にとること】 【二、妻の家庭教師の日の送迎は、夫が行うこと。ただし、夫の業務の都合がつかない場合はこの限りでない】 【三、妻は、困ったことがあれば、まず夫に相談すること】 葵は、便箋を持ったまま固まった。 何度読み返しても、そこにはそれだけしか書かれていなかった。 ほかの男と話すな、とも。笑うな、とも。 「……桐生さん。これ、本当に陸さんが?」 「はい。昨夜遅くまで、書斎で書き直していらっしゃいました」 「書き直して……?」 桐生は、口元にかすかな笑みを浮かべた。 「屑籠が、便箋でいっぱいでしたので」 葵は、もう一度三つの条項を見下ろした。 一つ目の夕食も、二つ目の送迎も、どう読んでも命令の形をしている。けれど三つ目だけは、どこか不器用な頼みごとのように見えた。 困ったことがあれば、まず相談すること。 父の病室のことを思い出す。頼んでもいない特別病棟と、名の知れた主治医。 あの人は、いつも黙って先回りしてしまう。そのくせ、自分には相談しろと言うのだ。 「……ずるい人
「仕事は辞めろ」 翌朝の食卓で、陸は新聞から目を上げずにそう言った。 広いダイニングには、二人分の朝食が並んでいる。焼きたてのパンに、湯気の立つスープ。三浦が用意してくれたものだ。 葵は、スプーンを持つ手を止めた。 「どちらの仕事ですか」 「両方だ。もう借金を返すために働く必要はない」 確かに、そのとおりだった。昼の事務の仕事も、夜の家庭教師も、すべては利息を払うためだった。 けれど。 「事務の仕事は、辞めます」 葵は、静かにスプーンを置いた。 「でも、家庭教師は続けさせてください」 陸が、ようやく新聞を下ろした。 「理由は」 「教えている子が、三か月後に高校受験を控えているんです。ずっと一緒に頑張ってきました。今ここで放り出すわけにはいきません」 「代わりの講師なら、もっと優秀な者を手配できる」 「そういうことではないんです」 葵は、陸の目をまっすぐに見返した。 「借金は、あなたに返していただきました。そのことには本当に感謝しています。でも、私の生活まで全部お渡しするつもりはありません」 ダイニングに、沈黙が落ちる。 控えていた三浦が、そっと息をのむ気配がした。この家で、陸に正面から意見する者などいないのだろう。 やがて、陸は短く息を吐いた。 「週に何日だ」 「二日です。火曜日と金曜日の、夜七時から九時まで」 「夜か」 陸の眉がわずかに寄った。夜間の外出は控えるように、と桐生を通じて言われたことを思い出す。 「……帰りは必ず車を使え。それが条件だ」 「ありがとうございます」 葵が頭を下げると、陸は何も言わずに再び新聞を広げた。 その紙面が、さっきから一枚もめくられていないことに、葵は気づかなかった。 * その日の午後、葵は父の入院する病院を訪れた。 ナースステーションで名前を告げると、看護師が申し訳なさそうに言った。 「白石さんでしたら、昨日、特別病棟に移られましたよ」 「特別病棟……?」 案内された最上階の個室は、ホテルの一室のように広く静かだった。窓際のベッドで、父が穏やかな顔で眠っている。 枕元には、担当医の名刺が置かれていた。心臓外科の分野で名の知られた医師だと、葵でも知っている名前だった。 「神条様のご紹介で、今朝から主治医が替わりました」
翌日の午後六時。葵は、陸と並んで車の後部座席に座っていた。 左手の薬指には、昨夜受け取った指輪がある。慣れない重みに、何度も視線が落ちた。 神条本家は、都内の閑静な住宅街の奥にあるという。陸は乗り込んでから一度も口を開かず、手元の書類に目を通し続けていた。 沈黙に耐えきれず、葵は小さく尋ねた。「お祖父様は、どんな方なんですか」「嘘を見抜く人だ」 陸は書類から目を上げずに答えた。「余計なことは話すな。聞かれたことだけに答えろ。困ったら俺に合わせればいい」「……馴れ初めを聞かれたら?」「仕事の関係で知り合った。半年前からだ。それ以上は言うな」 半年前。父の事業が破綻した頃だ。 あまりにも出来すぎた筋書きに、葵は胸の内で苦笑した。きっと、この人は最初から何もかも計算していたのだろう。* 本家は、白い土塀に囲まれた広い日本家屋だった。 手入れの行き届いた庭を抜け、長い廊下を進む。案内された座敷の奥に、和服姿の老人が座っていた。 神条宗一郎。八十を過ぎてなお、神条グループの会長として君臨する人物だ。 深く刻まれた皺の奥で、鋭い目が葵をとらえた。「お前が、白石の娘か」「白石……いえ、神条葵と申します。ご挨拶が遅くなり、申し訳ございません」 葵は畳に手をつき、深く頭を下げた。白石家で厳しく仕込まれた作法が、こんなところで役に立つとは思わなかった。 宗一郎は、しばらく黙って葵を眺めていた。「白石の家には、昔、世話になったことがある。あれが潰れたと聞いたときは、惜しいと思ったものだ」 思いがけない言葉に、葵は顔を上げた。「祖父と、お知り合いだったのですか」「古い話だ」 宗一郎はそれ以上語らず、湯呑みに口をつけた。 膳が運ばれ、食事が始まった。陸は相変わらず口数が少なく、宗一郎の問いにも短く答えるだけだった。「相変わらず愛想のない男だ。それで、よく嫁が来てくれたものだな」 宗一郎が、箸を置いて葵を見た。「葵さん。この男の、どこがよかった」 座敷の空気が、ぴんと張り詰めた。 隣で、陸の手がわずかに止まる。 困ったら合わせろ、と彼は言った。けれど、この問いは陸に代わってもらえるものではない。 葵は、昨夜のことを思い出していた。「……言葉は、少し冷たい方だと思います」 宗一郎の眉が、ぴくりと動いた。「でも、私が夕食を
「結婚? 姉さんが?」 その日の夕方。白石家の古い台所で、湊は箸を持ったまま固まった。「相手は神条陸さん。神条グループの社長よ」「神条って……あの神条? なんでいきなり」 契約のことは、誰にも話してはならない。それが条件の一つだった。「前から、お話をいただいていたの。借金のことも、父さんの治療費も、全部助けてくださるって」「それって、姉さんが身売りするってことじゃ——」「違う」 葵は、湊の目をまっすぐに見た。「私が自分で決めたの。だから湊は、進路希望調査を書き直しなさい。医学部、諦めないで」 湊は何か言いかけて、唇を嚙んだ。 二十四年間、葵は弟に嘘をついたことがなかった。これが最初の嘘になる。 午後八時。白石家の門の前に、黒塗りの車が静かに停まった。 運転席から降りてきたのは、陸ではなかった。「社長秘書の桐生です。奥様をお迎えに上がりました」 三十代半ばほどの、穏やかな顔立ちの男性だった。彼は葵の小さなスーツケースを受け取ると、後部座席の扉を開けた。 車が走り出してしばらくして、桐生がバックミラー越しに口を開いた。「いくつか、社長からの伝言がございます」「はい」「まず、社外の方とお会いになる際は、必ず私か三浦にご予定をお知らせください。それから、夜間の外出はお控えいただきたいと」「……ずいぶん、細かいんですね」「奥様のお立場を考えてのことです。神条の名は、良くも悪くも目立ちますから」 桐生は信号で車を止めると、助手席に置いてあった小さな箱を差し出した。 濃紺のベルベットの箱。開けると、細いプラチナの指輪が入っていた。飾りは少なく、内側に小さな石が一つだけ埋め込まれている。「社長からです。明日から、必ずお着けくださいとのことでした」「直接、渡してはくださらないんですね」 思わずこぼれた言葉に、桐生は少しだけ困ったように笑った。「社長は、そういうことが不得手な方ですので」 葵は指輪を左手の薬指に通してみた。 測った覚えもないのに、それは驚くほどぴったりだった。* 神条邸は、都心の高台にあった。 高い塀に囲まれた敷地の奥に、白い石造りの洋館が建っている。白石家の屋敷も古くて広いと言われてきたが、ここは規模がまるで違った。「お待ちしておりました、奥様」 玄関で頭を下げたのは、六十代ほどの女性だった。「家
その朝、屋敷は、息をひそめたように静まり返っていた。 神条陸は、妻の部屋の扉を開けた。 クローゼットは空だった。窓辺に飾られていた花も、読みかけの本も、彼女がここにいた証は何ひとつ残っていない。 ドレッサーの上にあるのは、結婚指輪と、一通の封筒。 そして、すでに署名を終えた離婚届。 今日は、三年間の契約が満了する日だった。 わかっていたはずだ。自分で決めた期限だ。それなのに、陸はその場から一歩も動けなかった。 足元に、一枚の紙が落ちている。 拾い上げた瞬間、指先から血の気が引いた。 産婦人科の診断書だった。患者名の欄には、見慣れた名前がある。 ——妊娠八週。 「……葵」 呼んだ名前に、答える声はなかった。 * 三年前。 白石家の郵便受けに、裁判所からの封筒が届いていた。 【競売開始決定】 白石葵は、その文字を何度も読み返した。読み返したところで、意味が変わるわけではない。 明治から続く白石家の屋敷は、このままでは遠からず人手に渡る。 「姉さん……」 振り返ると、制服姿の弟・湊が立っていた。高校三年生。本来なら受験勉強に全てを注いでいるはずの時期だ。 「大丈夫。学校に行きなさい」 「でも、父さんの病院代だって……俺、やっぱり大学はやめて働くよ」 「湊」 葵は、弟の言葉を静かに遮った。 「それを決めるのは、まだ早い。姉さんが何とかするから」 何とかできる当てなど、どこにもなかった。 半年前、父の事業が破綻した。信頼していた取引先に裏切られ、残ったのは十二億円の借金だけ。父はその心労で倒れ、今も病院のベッドの上にいる。 葵は昼は事務の仕事を、夜は家庭教師を掛け持ちしている。それでも、毎月の利息にすら届かなかった。 湊を送り出したあと、葵の携帯が鳴った。知らない番号だった。 「白石葵様ですね。神条銀行の者です」 無機質な男の声が、淀みなく告げる。 「白石家の債権は、先日すべて当行が譲り受けました。本日午後三時、神条ホールディングス本社へお越しください」 「……本社、ですか? 銀行ではなく?」 「社長が、直接お会いになるそうです」 * 都心にそびえる神条ホールディングスの本社ビルは、空を切り取る刃のように見えた。 銀行、不動産、投







